医療者に対して漢方の教育を生業にしていた父が書いたコラムが掘り出された。
なかなか面白いので、転載させてもらう。
父は他界しているし、親子だし、大丈夫…たぶん。
落語の小咄に「葛根湯医者」というものがあるらしい。
頭痛の患者にも、胃痛の患者にも、筋肉痛の患者にも葛根湯を処方する医者。
ついには、付き添いで来た人にも葛根湯を処方するというお話。
一見、ヤブ医者のように笑われているが、実際はどうなのか。
葛根湯医は…迷医!?
薮井竹庵先生、今日も今日とてお忙しい様子です。
「おや、熊さん、どうしたい」
「昨日から、頭が痛くて寒気がして肩も凝るし、それに今日は何だか熱が出てきやがった」
「それはいかんな、風邪じゃろう。では葛根湯をつくるゆえ、すぐに帰って服みなされ」
「お寅さん、どうしたい」
「先生、この子の顔を見てくださいな。変な物が出来て」
「どれどれ。ただの吹出物じゃな。葛根湯を服めば一日二日で治るて」
「お次は誰じゃ。おお八さんか。どうした」
「どうしたもこうしたもありやせんよ。二、三日前から、二の腕が痛くて、どうにもこうにも。大工が腕が痛くちゃ、こちとら食いあげですせ。先生、どうにかして下せえ」
「どれどれ、拝見。ほう、筋がつっぱっておるな。今、葛根湯を進ぜるので、すぐに服みなされ。おっつけよくなる筈じゃ」
「与太郎、今度は何じゃ」
「先生、身体中かゆくてかゆくて」
「なんぞまたおかしな物でも食ったんじゃないのか。はあ、これは隠*疹じゃ。近頃では蕁麻疹とかいう。葛根湯ですぐに引っ込むので心配はいらんぞ」
その日の夕方、熊さん、お寅さん、八さん、与太郎の長屋の面々、物知りで名高い、横町の御隠居にお伺いを立てに集まりました。
「ねえ、御隠居さん、おかしな話じゃありませんか。あっしらはみんな違う病気ですぜ。それなのにあの薮井先生たら、みなに葛根湯をくれるなんて。確かに、あの先生は、よくあっしらの面倒もみてくれるし、金を払わなくとも文句は言わないし、あんないい先生はいやしませんが、どうも腕の方が。御隠居さん、どうなんでしょう」
およそ古今東西、森羅万象、知らないものはないと噂の御隠居も、こればっかりは答に窮したのです。
ところが、二、三日すると、長屋の連中すっかり病気が治り、またまた薮井先生の評判は上ることになります。
葛根湯は、『傷寒論』を出典とし、表証に使用される代表的な方剤です。
では、表証とは一体どんな病態なのでしょうか。
漢方では、人体を大きく表と裏に分け、病態を分類しています。
表は、皮毛・肌肉などの体表部をいいます。
裏は、五臓六腑などの内臓部をいいます。
そこで、皮毛・肌肉など体表部に病邪があり、発病する病態を、表証といいます。
それに対して、五臓六腑など内臓部に病変のあるものを、裏証といいます。
外感病(急性発熱性疾患)の傷寒では、風寒がまず体表を犯します。
悪寒がして、頭が痛み、あるいは筋肉・関節が痛み、しだいに発熱してきます。
これが、傷寒の太陽病です。
これらの症状は、体表部にあります。
症状が体表部にあるばかりか、病邪も体表にあります。
その証拠には、発汗して、汗とともに病邪を去れば、この疾病は治ります。
体表部に症状があれば、表証かといえば、そうとは限りません。
「病の応は大表にあり」で、すべての疾病は体表に変化を生じます。
漢方家が、臨床検査もせずに、漢方診断を下せるのは、これがあるからに外なりません。
つまり、裏証でも体表部の変化が見られます。
肝熱証では、目に発赤・腫脹が現われるが如きです。
すると、表証と裏証との区別は困難だということになりそうですが、そうではありません。
表証は、あくまで、病邪が表に存在し、あるいは病理か体表部にあります。
そこで、表証は、次の条件を確認します。
- 体表部に症状があること。
- 内臓部に症状のないこと。これは、裏証でないことの確認です。
- 仮に内臓に症状があったとしても、それとは無関係、独立に体表部の症状が起ること。表証と裏証が直接の関係を待たないことの確認です。
そして、これはやや操作主義的な言い方ですが、発汗剤が効くことです。
こう考えてくると、表証は、外感病初期の悪寒・発熱期に限ったことではなさそうです。
お寅さんのせがれは、顔に吹出物を出していました。
化膿性疾患は、糖尿病のように、裏証があって反復して化膿する場合もありますが、全く突然に裏証をともなわず、発病するものがあります。
これは表証なのです。
これに、薮井先生は葛根湯を使用していましたが、十味敗毒湯なども同様に適応します。
神経痛・リウマチなど、漢方で痺証と呼ばれる疾患にも、表証があります。
薮井先生は、八さんの二の腕の痛みに葛根湯を使用しました。
痺証には、葛根湯だけでなく、桂枝湯・麻黄湯など、代表的な発汗剤が加減して応用されています。
面白いことに、痺証のような慢性病にこれらの方剤を使用しても、発汗しません。
もし発汗したら、むしろ不適だといえます。
そこで、慢性疾患の表証に発汗剤を使用する際には、もう発汗剤とはよばずに、発表剤とよんだほうがいいようです。
体表部の疾患の代表といえば、皮膚病です。
薮井先生は、与太郎の蕁麻疹に葛根湯を与えました。
同じ、蕁麻疹でも、食事性は脾胃を、神経性は肝気鬱結を考えざるをえません。
しかし、内臓とは無関係に起る皮膚病も少くありません。
葛根湯は、蕁麻疹のみならず、ある種の湿疹・皮膚炎にも応用されています。
そこで、表証には二種類があります。
- 外感病(発熱性疾患)の初期で悪寒・発熱・頭痛・体痛するもの。
- 急性・慢性を問わず、内臓部とは無関係独立に、体表部に痛み・筋の拘攣・発赤・腫脹・化膿・皮疹・変色などの症状を現すもの。
もちろん、いずれも葛根湯・桂枝湯・麻黄楊・十味敗毒湯など発表剤の適応です。
なんでもかんでも葛根湯を出すと噂され、落語にまでなった薮井竹庵先生、名医だった可能性は少くありません。